米菓の歴史

 
あられの歴史
せんべいの歴史

米菓は最初、素朴な家庭菓子として誕生し、長い年月にわたる多くの人々の研究によって今日のような発展をみました。
米菓の需要が増大したのは、明治から大正年間にかけてで、大衆菓子として親しまれるようになったからです。 とくに昭和になってから、一般菓子製造業者に比べて、米菓製造業者の数は急激に増えました。 需要が増えた要因は、米を主原料とし、主な調味料が塩味という点で、日本人の好みにぴったり合ったからでしょう。 なお、米菓以外の菓子類は、小麦粉、ばれいしょ(じゃがいも)、トウモロコシ等のでんぷんが主体です。
時代とともに、製造方法も格段の進歩をとげました。 また、しょうゆ、食塩、のり、ゴマ、油、グルタミン酸ソーダ等の改良とともに、調味方法もその時代の好みにマッチした工夫がなされてきました。
こうした種々の改良工夫が、ますます一般大衆菓子として、地位を確立しました。


あられの歴史
日本古来の風習として、もち米を祝いの儀におそなえすることは、大和時代(350年代)から行われていました。

奈良時代(800年代)になり農民が五穀豊穰(ほうじょう)を祈り願うため、神にもち米をそなえていました。 その後、その米を土皿に入れてあぶり、農民の間食として食されていたことが記されています。

また、京の菓子司が宮人(みやびと)達のひな祭りのために、もち米をあぶってそなえたことが、今のひなあられの源といわれています。

その後、餅状についたものを、のばして切り、天日乾燥後、 あぶりながらしょうゆをまぶしてつくるという、せんべいとほぼ同様の製法が用いられるようになりました。

なお、あられは関西が発祥(はっしょう)地であるといわれています。


せんべいの歴史
米菓の歴史は古く、明確な記録をつかむことは困難ですが、 935年源順(みなもとのしたごう)のあらわした文献に飯餅類に「せんべい」とあり、油で小麦めんを煎(い)ったものと説明してあります。

奈良時代から平安前期には、当時は唐菓子(からがし)といった干菓子が存在しました。せんべいは弘法大師(僧空海)が唐国から持ち帰ったと伝えられています。

せんべいが発達したのは江戸時代になってからで、せんべい類(関東式・関西式)と塩せんべいの種類があります。

前者の江戸初期のつくりかたは、小麦粉を砂糖と合わせてこね、蒸し器で蒸した後、ちぎってスモモの大きさにし、 竹管でのばし、かわかしてから、一枚ずつ鉄の皿範(かたなべ)で両面を焙(あぶ)ったものでした。

つまり、亀の甲(かめのこう)せんべいや瓦(かわら)せんべいの系統というわけです。 一方、塩せんべいはなかでも下級とされ、農家が残り飯を煎って蒸し、塩をまぜてのばし、 竹筒で丸型に抜いて天日干しとし、炭火で焼いたのが始まりといわれます。 江戸中期には一時すたれましたが、文化・文政の頃に、本書柳島(縁日等で)で売り出されたところ、 江戸中の人気を集めることになり、江戸でせんべいといえば、この系統のものだけと考えられたほどでした。 紀州の浜口義兵衛が、銚子でしょうゆつくりを始めたのが1645年ですから、この時期、すでに塩せんべいはしょうゆを用いていたと思われます。

塩せんべいは江戸近在の町屋、千住、金町、柴又、草加、越谷で繁盛(はんじょう)しましたが、 しょうゆの効いた、堅いこのせんべいは関東人の好みにぴったりだったのです。

亀田製菓HPより
http://www.kamedaseika.co.jp/r_story/index.html